66.秘密の通路の暗闇の底

 昭和30年代のある年の暮れのこと。
 Tさんには事情があって、12月の31日だというのに行く所がなく、安宿街を彷徨っていた。
 どこの宿でも断られ、最初にここは高そうだと敬遠した立派な構えの旅館まで、戻って来てしまった。日も沈んで凍えるように寒く、もう他の街まで行く気力もない。
 駄目で元々と思い玄関をくぐると、すぐ横にあった帳場から女将が顔を出し、Tさんが尋ねるより早く「今日は満員ですよ」と告げた。Tさんは、「布団部屋でもどこでも構わない、一晩だけ泊めてもらえないか」「食事も要らないので」と粘った。
 最初は無理だと言っていた女将が、Tさんの窮状を察したのか、しばらく考えたのち、「本当にどんな部屋でも良いのですね」と念を押した。「あとで文句を言われても困るし、騒がれては他の客に迷惑だから」とさらに念押しされても、Tさんは「大丈夫大丈夫」と答えた。
 通されたのは長い廊下を幾度も曲がった先の、さらに細い通路にある小部屋だった。
 左に窓・右は壁・奥にもう一つ扉があるだけの簡素な作りだったが、こたつが置いてあり、冷え切った体にありがたかった。女将は女中に布団を敷かせ、お茶と茶菓子と手拭いを用意してくれた。Tさんは、提示された格安の宿賃から想像していたより、きちんとしているなと思った。だが女将はまた「大晦日から元旦は目が回るほど忙しいのだから、もう呼びつけたりしないで欲しい」「とにかく朝まで静かにしていてくれ」と釘を刺した。特に、「奥の扉は絶対に開けないで」と、強い口調で注意して立ち去った。
 Tさんは体が温まり、とりあえずの安堵感もあって、いつの間にかうたた寝していた。

 目を覚ますと、遠くに宴会のにぎやかな声が聞こえていたので、まだ夜半だったのだろう。便所に立って戻ると、今度は目が冴えて眠れなくなった。色々考え事をしていたが、開けるなと言われた奥の扉が気になり始めた。
 その扉には、こちら側から太いかんぬきが掛けてある。あれほどきつく言う事情は何なのだろう。そっと中を窺ってもまた元通りに閉めておけば、ばれやしないはずだ。
 Tさんはついに、少しだけ扉を開けてみた。
 そこは真っ暗な廊下だった。
 廊下の突き当たりの扉の下から、灯りが漏れている。
 つまり今いる部屋は、灯りが漏れている部屋に、誰にも会わずに行く為の、次の間のようなものなのか。向こうの部屋を覗かれてはいけないので、開けるなと言ったのか。
 Tさんが納得して閉める寸前、暗い床が蠢いたように見えた。
 確かめようともう一度扉を広く開け、部屋の明かりで照らすと、黒い影が這いずるようにしてこちらを向いた。
 着物を着て上半身を起こした小柄な少女だった。
 12、3歳くらいなのに、大人の男をぞっとさせるような、嫌な薄笑いを浮かべていた。Tさんは自分の人生で、あれ程ひと目で邪悪と分かるような存在を、他に知らないという。
 戸惑っていると、少女はいきなり立ち上がり、素早くこちらに向かって来た。慌てて扉を閉めた。開けてはいけない理由はこれだと悟った。
 それから扉越しに、「開けて」「助けて」と懇願する声が聞こえた。しかしTさんにはどうしても、助けて良い者には感じられなかった。しばらく頼んでも開けてもらえないと今度は、「寒いから温めてほしい」などと囁くのだった。しかしその囁きも、底知れない闇の匂いを漂わせていた。
 少女は一晩中喋り続け、何とかして扉を開けさせようとした。Tさんは耐えた。
 恐ろしく長い夜だった。
 やがてとうとう話すのをやめ、すすり泣きが聞こえるようになっても、可哀想だとは思えなかった。疲れ切って、ただただ早く夜が明けてくれと祈りながら、うつらうつらしていた。

 新年の遅い朝日が窓に差し込んでいるのに気付いた時、これでやっとここから出て行けると、心底ほっとした。
 扉の向こうからは低い唸り声がしていた。
 じきに部屋が陽の光で満たされると「あぁ!」と短い叫びが上がり、、Tさんは思い切ってまた扉を開けた。少女が何者か、どうなったか確かめてから出発したかった。
 だがその廊下に人の姿はなかった。探しても入れる場所もなく、奥の扉は向こう側から施錠されていた。
 ただ中央あたりに、横になったヒト形の、どす黒いしみがあるだけだった。

2023-12-31

66.秘密の通路の暗闇の底」への5件のフィードバック

    1. この旅館は昔の花街にあったのだそうです😑
      何に使われていた建物かは分かりませんがこの少女も遊女や芸妓だった可能性がありますね🤔

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    1. 確かに幼いのに邪悪に見えるって怖いですね😨
      もし扉を開けてやってたらどうなったのかも想像すると怖いです😱

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