
古い商店街に面したその店では、客が入ってきたのを見て人数分の水を運ぶと、余ることがよくある。カウンターから死角になっている奥のスペースには、混んできても誰も座ろうとしない。「奥へどうぞ」と声をかけても、そちらに行きかけた客が戻ってきてしまう。確認すると誰もいないが、カウンターで下を向いて洗い物をしていると、出口に向かって影が通り過ぎた気がする。そのあとはまた奥の席にも人が座り始めるのだそうだ。
2019-03-25

古い商店街に面したその店では、客が入ってきたのを見て人数分の水を運ぶと、余ることがよくある。カウンターから死角になっている奥のスペースには、混んできても誰も座ろうとしない。「奥へどうぞ」と声をかけても、そちらに行きかけた客が戻ってきてしまう。確認すると誰もいないが、カウンターで下を向いて洗い物をしていると、出口に向かって影が通り過ぎた気がする。そのあとはまた奥の席にも人が座り始めるのだそうだ。
2019-03-25

マンションの駐車場の一番奥まった場所が、Sさんのバイク置き場だった。仕事のシフトが深夜になり、まだ暗い早朝に帰宅してバイクを止めていると、奇妙な光景に気がついた。
マンションと隣のビルとの間は、人が横向きにならないと入れないくらい狭い。その僅かな隙間の奥に女が立っていた。横顔だし暗くて表情はよく分からない。何をしているのか気になったが、疲れていたしそのまま部屋に戻った。だが次の日の帰りに、また同じ女がいるのを見てゾッとした。

その日の昼過ぎ買い物に出ようとすると、駐車場が封鎖されて警察が来ていた。あの隙間で、ビルから落下したらしい女の遺体が発見されていた。
しかしSさんが見た女は、確かにしっかり立っていたのだ。
2018-08-04 02:200

父を早くに亡くし、ずっと一人暮らしだった母親が倒れた年、離れた街にいたBさんは、介護のために妻子を連れて、実家に住み始めた。当時小学校に上がったばかりだった娘は、せっかくできた友達と離れるのを嫌がり、なだめるのに犬を飼おうと約束をした。Bさん自身、子供の頃から犬が欲しかったので、引越しが済むとすぐに、親戚の家で生まれた子犬をもらいに行った。その黒い犬は、もう親と同じくらいの大きさだったが、臆病な性格だった。家に着いても車から降りようとせず、引きずり出そうとしたら逃げた。すぐに捕まえたが、その後も何度か逃走しては、車で10分くらいかかる親戚の家に戻っていた。大きくても寂しがり屋で、人の姿が見えなくなると、いつまでも鳴き続けるのだった。

遠距離通勤になったBさんは、朝早くに家を出て、帰りも遅かった。妻は毎日母の病院に通っていて、休みの日にはBさんが付き添った。あまり構ってもらえなくなった娘にとって、犬は大切な友達で、自分で世話をしていた。「クロちゃん」とか「チャメちゃん」と呼んでいて、チャメというのは目が茶色だからだそうだ。いつも一緒にいたと思う。ただ散歩だけは、娘を振り切って逃げてしまうので、妻でないと無理だった。犬の脱走は、決まって妻のいない間に起きた。

何度目かに犬を引き取りに行った日、親戚から「悪いがもう犬は返せない」と告げられた。だんだん痩せて来ている上に、こんなに逃げるのは、あの家を嫌がっているからだという。餌はちゃんとやっているし、娘がどんなに可愛がっているか訴えたが、「やっぱりあそこで犬を飼っちゃいかん」と言って譲らない。それを聞いて思い出したのは、Bさんが子供の頃、「犬を飼いたい」とどんなに頼んでも、父親が「駄目だ」と取り合ってくれず、何故と問うと”あれ”がいるからと答えたことだ。適当な話でごまかしていると思っていたのに、親戚も「昔からあの家では犬を飼えない」と聞いていたのだ。

結局犬を取り戻せず、娘ががっかりすると心配したが、意外にも「チャメちゃんはいらない」とサバサバしていた。ただ妻は、時々犬を呼んでいるようだと気にしていた。そのあと母の容態が悪化して、大変な時期が続き、Bさん一家が実家暮らしをしていたのは、3年ほどだった。

今はもう結婚して親元を離れている娘が、夫を連れて来た時に、アルバムを眺めていて、ふと「昔犬を飼ってたよね」と呟いた。古い犬の写真を探し出して「ほらこれだよ」と見せると、違うと言う。「これはすぐにいなくなったチャメちゃんでしょ? 私が見たいのはクロちゃんの方」なのだそうだ。

それは全身真っ黒な体で、真っ黒な目が光る、チャメよりさらに大きな犬だったと、彼女は言った。
2018-07-30 18:39

天井の岩の割れ目から海面に射し込む光が美しく、以前は遊覧船が入っていた洞窟で、ある日事故が起きた。自分の釣り船で向かった3人連れが、全員死亡して見つかった。干潮時に入ったが、ぐずぐずしている間に潮が満ちて出られなくなり、窒息したのだという。

この洞窟は確かに満潮になると船は通れない。波が激しいので泳いで出るのも難しい。しかし完全に水没はしないし上部に穴もあるので、窒息するとは考えにくかった。
さらに船上で発見された死体は3体ではなく4体。ひとつは身元不明の溺死体で、死後一週間くらいは経っていた。

3人の死体に首を絞められた痕があったと噂がたったのち、遊覧船のコースから外されたのだった。
2018-06-29 23:40

Mさんの町はある山地の登山口になっている。
もう10年以上も前に別れた夫が気になり始めたきっかけは、職場での雑談だった。息子の山好きは父親譲りと話していたら、何故離婚したのか聞かれた。
夫はある日を境にほとんど喋らなくなり、会社からは無断欠勤していると電話があった。Mさんは浮気を疑い問い詰めたが、何を聞いても反応がなく、夫婦仲は悪化した。一方で頻繁に山に出かけ、息子も一緒にと執拗に誘っていた。前は喜んでついて行った息子が頑なに拒むので、理由を聞いたら「あれはパパじゃない」と言ったのだ。夫婦の問題が、息子にまで悪影響を与えていると思った。
Mさんの話を聞いていた同僚が、昔親戚の娘さんが破談になった理由が、よく似ていると言い出した。婚約者が、人が変わったように寡黙になり、会社にも行かなくなったのだった。「山から帰ったら別人になっていた」と訴える娘さんを心配した両親が、急遽結婚式を取り止めた。しかし親族の騒ぎをよそに、彼は楽しそうに山歩きに熱中していたらしい。

男の態度が急に冷たくなるのは珍しくないかもしれない。ただ引っかかったのは、夫が変わったのも、同じ山に行った後なのだ。時期も同じ頃のようだった。そして去年その山に行った息子が、元夫を目撃していた。そこは途中に岩場や藪がありトレイルランをするようなルートではないが、息子たちのグループを走って追い越して行った男が、間違いなく父親だったという。

50を過ぎている彼は笑みを浮かべ、若者たちが驚嘆するようなスピードで、急坂を駆け上がって見えなくなった。
2018-05-26 00:00