33.影取り

 Jさんがまだ中学生だった頃、夏休みは毎日部活の練習に通っていた。いつも通る道の曲がり角には、かなり大きな木がせり出していた。
 ある日その角を曲がった途端、飛び出してきた男とぶつかりそうになった。びっくりして立ちすくむと、男は全速力で走って行ってしまい、木陰にいた二人の子供に笑われた。気を取り直して歩き出したら、後ろから声をかけられた。「影取りだよ」「あなたの番だよ」何を言ってるのだろうと思った。

 ところが Jさんは、練習中のグラウンドで気が付いた。自分だけ影が無いのだ。オロオロしていると、チームメイトが集まって来て、先輩達も相談に乗ってくれた。とりあえずあの木まで行ってみることになった。しかし周囲を探しても、もうあの子達は居ないし、どうすればいいか分からない。夕方になり、その日は解散するしかなかった。家に帰っても母親に言いそびれたまま、翌日になれば影が戻っているのではないかと、期待していた。

 翌朝やっぱり影は無く、家を出て木の所に向かった。木陰から時々通る人を見ていて、昨日の男を思い出した。するといつのまに来たのか、子供達の声が背後から「あなたの番だよ」「取るんだよ」と言う。「どういう意味?」と聞こうとして、振り返って固まった。昨日はよく見ていなかった二人の、顔だけが老人だったのだ。
 思わず後ずさりした時、ちょうど通りかかった人がいた。「今だよ」「影取りだよ」 Jさんはハッとして、木陰から飛び出して走って逃げた。影は戻っていた。

 あの時の大樹はしばらく後に、区画整理で切り倒された。Jさんは大人になるにつれ、あれは本当の出来事だったんだろうかと疑うようになり、やがて忘れかけていた。だが去年の夏、電車の窓から偶然その光景を見て、思い出した。
 線路沿いの通りを行き交う人達の中に、ひとりだけ影の無い人が、歩いていたのだった。

2019-08-16 16:00