
Iさんがその日に限って反対方向の路線に乗ったのは、ある有名洋菓子店に寄ろうとしたからだった。
前日仕事のトラブルで深夜まで対処に追われ、家に着くと妻がポツリと「今日私の誕生日だったのよ」と言った。Iさんが残業で仕方なかった説明をすると、妻は黙って諦めた顔をしていた。
いつもならそのまま過ぎてしまうが、何故かこの時はどうしても埋め合わせをしておきたかった。前の年、たまたま妻の誕生日に、取引先から高級ケーキをお土産に頂き、それを持って帰ると、貰い物だと聞いても妻はとても喜んだ。その店のケーキを買って帰りたかったのだ。
乗り換えた電車で空席を見付け、腰掛けたところまでは覚えている。

目を覚まし、いつの間に寝てしまったのだろうとぼんやり見回すと、各車両に一人ずつくらいしか客が居なくなっていた。みんな眠っているようだ。
外はまだ夕暮れなので、それほど時間は経っていないらしい。足元の木製の床やレトロな雰囲気の座席を見ても、こういうタイプの車両もあったのだなと思っただけだった。しかし振り返って窓の外を見て驚いた。
電車は深い渓谷沿いを走っていた。谷を挟んで反対側には山並みが続き、なんとも言いようのない綺麗な風景だったのだ。
この路線の先はこんな所だっただろうかと疑問も湧いたが、それより目の前の美しい光景を写真に撮ろうと、カバンの中を探した。いつも持ち歩いているコンパクトカメラを取り出し、車窓の風景を狙った。逆光でどうしてもうまく撮れなかった。
やがて渓谷の先に真っ赤な橋が見えて来た。橋を渡った向こう側へと線路が続いていた。その先にはさらに美しい景色が広がっているのが分かった。
しかしIさんの頭には突然「早く次の駅で降りて戻らなければ店が閉まってしまう」という考えが浮かんだ。そしてまた意識が飛んだ。

次に目覚めたのは病院のベッドだった。電車の中で倒れていた。
一度は心臓が止まったIさんに、再び心拍が戻った時、うわ言で店の名前を呟いたそうだ。その場にいた人から聞いた妻は、何故Iさんが滅多に使わない路線の電車に乗ったか理解した。「忙しいのに無理しなくて良いのよ」と言った。
しばらくしてIさんは、カバンの中にあったカメラの写真を順番に見ていた。最後に、真っ白な光のハレーションの中に、うっすらと山並みのようなものが見て取れるショットが残っていた。
2023-02-28