58.海に行ってはいけない日

 Kさんの住む小さな港町では、17年に1度だけ特定の日に、夜になったら屋内に入って、朝まで決して外に出てはいけないと教えられて来た。海を見てもいけないので、海が見える範囲の家々では、厳重に戸締りして明け方まで籠っていた。

 この手の言い伝えは各地にあると思うが、この集落のものは少し変わっていて、海で死んだ者達が、生者を喰いに来るのだという。もしも海で事故があったら、遺体は必ず引き上げて供養してやらないと、海の底でそれに喰われて皆それになってしまう。

 Kさんは若い頃この話を全く信じていなかった。実際に外に出て行方知れずになった者がいると聞いても、化け物に喰われたとは思えない。古い因習を守ろうとする大人達を、馬鹿にしていた。

 51年前のその夜、Kさんは悪友達と3人で親の車に乗り、港のコンクリートの斜面に停車して、海の方を見ながら待っていた。それぞれ友人の家に泊まると言って出てきたが、親や祖父母達には「今日がなんの日か分かっとるな」と念を押されていた。誰も言い伝えを真に受けてはいないし、もしも何かがやってくるなら、正体を見てやろうじゃないかと笑い合った。

 数時間は喋ったり、飲んだり食べたり、ラジオを聴いたりして過ごしたものの、だんだん眠くなるし、退屈な徹夜になりそうだった。

 いつの間にか寝てしまったKさんが、肩を激しく揺さぶられて目を覚ますと、助手席の友達がフロントガラスを指差して慌てていた。後部座席の友人も「なんだこれは!」と叫んでいる。最初何を騒いでいるのか分からなかったが、目を凝らしてよく見ると、目の前で闇が蠢いていた。室内ライトを点灯すると、それは黒い小さな甲殻類のような生き物の群れだった。すぐにフロントガラスだけでなく、サイドも後部もその生き物で埋め尽くされ覆われて行った。

 Kさんは車を出そうとしたものの、タイヤが空回りして前にも後ろにも動かない。逃げようとすればするほど、じわじわとスロープを滑り落ちて、サイドブレーキをかけても止まらない。その先は海だった。

 カサカサ・カリカリ・ザワザワと音だけが聞こえ、全面が真っ黒になった。上にどれだけの数がいるのか、車が揺れて軋んでいた。俺達は車ごと海に引きずり込まれるんじゃないかと、怖くなった。

 何も出来ずにただ時間が経つ中、助手席の友達は喚き散らすし、後部座席の友人は泣き始めた。そしてついに足元に水が入って来た。たまらず助手席の友達が 「外に出て助けを呼んで来る!」と叫んだ。「やめろっ!」「ドアを開けるな!!」と止めようとしたが、振り切って出ようとした。

 ドアが開いたのは一瞬でほんの数センチだったのに、あの生き物が雪崩を打って車内に入り込んできた。三人がかりで、必死でドアを引っ張って閉めたが、それから車内はもう阿鼻叫喚の絵図になった。 

 噛み付くのか挟むのか、ただ触っただけでも駄目なのか、火傷するような鋭い痛みに悲鳴を上げながら、生き物を振り払い叩き、踏みつけて殺していった。最後の一匹を殺してもまだ、3人とも苦痛にのたうち回っていた。疲れ果てているのに、激しい痛みにじっとしていられなかった。いつの間にか、水も腰の辺りまで来ていて、さらにじわじわ水位が上がり、俺達はもう死ぬと思った。

 助かったのは車が水没する前に、朝日が昇ったからだ。

 陽の光が射した辺りから、波が引くように生き物が退いて、やがて嘘のように綺麗に居なくなった。

 3人はよれよれになって近くの家に助けを求め、病院に運ばれた。車は潮に持って行かれ、引き上げもできなかったし、親父にこっ酷く叱られた。

 34年前と17年前のこの日は、皆がKさん達の事件を覚えていて、厳重に警戒して誰も外に出なかった。しかしさらに17年が過ぎ、生々しい傷跡を見た人も減り、他所から来た住民もいる町で、外に出てしまう奴がいないか、Kさんは真剣に心配している。

2023-03-12

41.足跡

 前日のような猛吹雪ではないものの、断続的に雪が降っていた深夜、Nさんは布団の中で足音を聞いた。ギュッギュッと雪を踏みしめながら、遠ざかったり近づいたりする。こんな底冷えのする夜更けに、どうしたんだろうと考えていた。近隣の家とは離れているし、土地の人間はこんな日には外に出ない。やがて寝落ちしていたらしく、ズン! という振動で目が覚めた。屋根から雪が落ちたらしい。続いて天井から響いてきた「ドッドッドッドッ」という音に覚えがあった。子供の頃にも確かに聞いた音だった。

 やっと晴れた翌朝、Nさんは新雪の上に、幾重にも重なる足跡を見た。それは靴跡ではなく、ただ丸い指も何もない跡だった。家のまわりを何周もぐるぐる回っており、見上げると急傾斜の屋根にも付いていた。
 昔 祖母は、雪の降り続く夜は外に出るなと言っていた。あの音がする天井を指して、雪鬼に食われてしまうぞと。あれは遭難しないための戒めと受け取っていたが、今では本当にいたと思う。

 2019-03-26

40.年越し

 年越しの夜は親族以外の者を迎え入れてはならない。戸締りをした後、ドアや窓を叩く誰かがいても、決して開けてはいけない。”彼等”は招き入れない限り入れないのだから。
 もし開けてしまったら次の大晦日まで”それ”を追い出す方法はない。

2019-07-12

36.通り道

 山の麓の村で子供達が聞かされるのは、山で草がなぎ倒されているのを見つけたら、何をしている途中でも一目散に逃げ帰れという言いつけだった。草原に1メートルくらいの幅で押しつぶされた痕が、蛇行しながらどこまでも続いているのを見た人は、何人もいるのだった。

2018-11-16

34.河童

 Wさんが若い頃大雨で浸水被害の出た年があった。その日村の男達は全員駆り出され、Wさんも先輩と組んで警戒に当たっていた。
 厚い雨雲のせいで昼なのに暗い道を、二人で川沿いの神社を目指して歩いていると、鳥居の前に緑のレインウェアの人が5人立っているのが見えた。皆小柄で痩せていた。隣村の連中が来ているのかと思ったが、50メートルほどの距離に近づいた時、不意に先輩が立ち止まり「ありゃ人間ではねぇな」と言ったのだ。
 視界も霞むほどの雨の中よく見ると、レインウェアを着ていると思ったのは、彼らが緑色だったからだ。頭の先からつま先まで全部が暗い緑だった。すぐに向こうもこちらに気付き、一人が「キェーーッ」と叫ぶと、次々に濁流の川に飛び込んで消えた。
 村には古くから河童の目撃談があり、鳥居の脇には河童を祀った祠もあった。この日の豪雨でその祠も流され、その後河童を見た人はいない。

2019-07-12