10.同じ山

 Mさんの町はある山地の登山口になっている。
 もう10年以上も前に別れた夫が気になり始めたきっかけは、職場での雑談だった。息子の山好きは父親譲りと話していたら、何故離婚したのか聞かれた。

 夫はある日を境にほとんど喋らなくなり、会社からは無断欠勤していると電話があった。Mさんは浮気を疑い問い詰めたが、何を聞いても反応がなく、夫婦仲は悪化した。一方で頻繁に山に出かけ、息子も一緒にと執拗に誘っていた。前は喜んでついて行った息子が頑なに拒むので、理由を聞いたら「あれはパパじゃない」と言ったのだ。夫婦の問題が、息子にまで悪影響を与えていると思った。

 Mさんの話を聞いていた同僚が、昔親戚の娘さんが破談になった理由が、よく似ていると言い出した。婚約者が、人が変わったように寡黙になり、会社にも行かなくなったのだった。「山から帰ったら別人になっていた」と訴える娘さんを心配した両親が、急遽結婚式を取り止めた。しかし親族の騒ぎをよそに、彼は楽しそうに山歩きに熱中していたらしい。

 男の態度が急に冷たくなるのは珍しくないかもしれない。ただ引っかかったのは、夫が変わったのも、同じ山に行った後なのだ。時期も同じ頃のようだった。そして去年その山に行った息子が、元夫を目撃していた。そこは途中に岩場や藪がありトレイルランをするようなルートではないが、息子たちのグループを走って追い越して行った男が、間違いなく父親だったという。

 50を過ぎている彼は笑みを浮かべ、若者たちが驚嘆するようなスピードで、急坂を駆け上がって見えなくなった。

2018-05-26 00:00

9.路地

 昔住んでいた町は古い住宅街が続き、細い路地がたくさんあった。その日友人達と駅へ向かうのに、路地のひとつを抜けて、近道しようとしていた。最後尾を歩いていた私は、中ほどに差し掛かった時、不意に横から出てきた男と、鉢合わせになった。男は青白い顔で痩せこけており、異常に大きな目をさらに見開いて私を見た。ギョッとして横をすり抜け、友人達に駆け寄って、振り返るともう居なかった。そのまま歩き出したものの、あとで疑問が湧いてきた。あの路地に人が出てくるような場所があっただろうか。
 後日友人と確かめると、その路地には横道もドアも何もなく、両側に塀が続くばかりだったのだ。

2019-03-25

8.エレベーター

 高層マンションに住んでいたYさん。ある夜帰宅してエレベーターに乗ると何かがおかしい。きしむような機械音がした後、ボタンが押されてもいないのに、各階ごとに停止してドアが開いた。閉ボタンも反応せず、いちいち止まっては開いて、ゆっくりと上った。イライラしたがどうしようもなく、やっと自分の階になるところで今度は下り始めた。諦めて階段を使おうかと思った時、どこからかうめき声のようなものが聞こえた。うめき声が大きくなり、叫び声になって遠ざかって行った。怖くてどこでもいいから降りたかったが、慌てて全部の階を押してもどこにも止まらない。1階に到着してドアが開くまでの時間がものすごく長く感じられた。

 エントランスに着くと、もうエレベーターに乗る気にはなれなかった。夫にどこかで合流して一緒に帰りたいとメールし、連絡を待っていた。やがてサイレンの音が近づいて来たので、外に出てみるとマンションの前にパトカーが止まった。離れているように言われ、他のサイレンの音も次々近づいて来て、何かが起こっているのだと分かった。

 Yさんの部屋と同じ階で殺傷事件があり、犯人は逃げた被害者をエレベーター前まで追いかけて、執拗に刺していた。さらに悲鳴を聞いて様子を見に出てきた他の部屋の住民も、切りつけられたのだった。

 Yさんは亡くなった母親が、自分を守ってくれたのだと言っていた。

2018-04-19 01:44 

7.カノモ様

 中学時代に友人の家に連れて行ってもらって驚いた。港を望む小山の中腹まで、神社のような階段を上がって行くと、大きな屋敷と濡れ縁で繋がった離れがあり、広い庭を挟んでもうひとつの屋敷もあった。裏手の山の斜面には小さな社が据えられ、この一族の守り神を祀っている。社の中には井戸のような縦穴が開いていて、古来からこの地を治める”カノモ様”の、通り道だと言い伝えられていた。

 ”カノモ様”は新月の晩だけ現れるが、その姿を見てはいけない。誰も姿を見てはいないが、お供えの鶏やお神酒はいつも綺麗に無くなっていると言う。

 友人が生まれるずっと前に屋敷で騒ぎがあった。まだ幼かった兄によると、真夜中に突然もの凄い悲鳴が上がり目が覚めた。男の声で「来るな! 来るな! 来るなーーっ!」と聞こえた。大人達が次々に、バタバタと縁側から降りる音がして、障子を開けて廊下に出ると、真っ暗な庭で男が取り押さえられていた。彼は激しく抵抗しながら「来るな!来るな!」と叫び続け、泡を吹いて痙攣し始めた。その横では女が泣き喚き、警官や医者も駆けつけたそうだが、夜風の冷たさと眠気に負けて布団に戻り、その後どうなったかは見ていない。

 後日の大人達の会話で何となく分かったのは、男は住み込みのお手伝いさんに会いに来て、誰にも見つからないうちに引き上げようとしたが、その晩は新月で、外に出てはいけない時間だった。見てはいけないものを見たのだ。

 この辺りの者なら深夜には絶対屋敷に近づかない。他所から来たあの男は3日間痙攣し続けて死んでしまった。またお手伝いさんも様子がおかしくなり、実家に帰った。

 彼女もまた「来ないで!来ないで!来ないで!」と叫び続けていたそうだ。

2017-10-20 02:00 

6.人喰い沼

 小学生の時1年だけ住んでいたM市は、当時まだ田園地帯が広がり、夏休みの子供が駆け回れる場所がたくさんあった。ただ農地に入ると大人に叱られるので気を付けなければいけない。特に、ある広大な畑の持ち主は凄い剣幕で怒るのに「ひょこひょこ走りで追いかけて来るのがおもしれー」と言ってわざと入る子がいた。その男子が上級生達に呼び止められて聞かされた話。

 道路から一段低くなっているこの畑の中央に、鬱蒼とした雑木林が見える。そこには地元民から”人喰い沼”とか”投げ込み沼”と呼ばれている場所があり、畑の持ち主が幼い頃、決して近付くなときつく言い付けられていた。だがある日どうしても沼を見たくなり、親の目を盗んで林に分け入った。

 それは思っていたより小さくて汚い沼だった。濁った水を覗き込んでも何も無く、つまらなくなって引き返そうとすると、泥に足を取られて滑ってしまった。

 靴を濡らしただけで済んだので、家に帰ると外で靴と足を洗ってバレないようにした。ところが母親が戻って来た途端に怒鳴るので、振り向くと自分の歩いた後に、沼から家の中までくっきりと泥の足跡が続いている。

 すぐに風呂に入って足をよく洗うように言われたが、風呂の湯がいつまで経っても熱くならない。母親を呼んだら母は悲鳴を上げた。いつの間にかお湯が泥水に変わっていた。

 風呂を出ると近隣の大人が全員集まっていて、一人だけ見知らぬ老人が混ざっていた。老人は彼の側に来て頭を撫でながら「喰わせてやるしかない」とつぶやいたと言う。

 怖くなって逃げようとしたが捕まり、ぐるぐる巻きにされて沼に連れて行かれたのだそうだ。

 私達はその話を聞いてから、あの畑の方へは行かなくなった。持ち主のおじさんの足が義足だと知っていたからだ。

2017-08-21 18:58