31.磯

 子供の頃、私の故郷では夏休みになると、毎日泳ぎに行くのが当たり前だった。砂浜は急に深くなるし波が荒くて危険で、岩場の自然に形作られたプールになっている所で、みんな泳いでいた。高波が打ち付ける外海には出ない決まりだし、誰かしら見守っている父兄もいた。それでも磯の水深はたいてい数メートルもあり、大人でも足はつかない。たまに溺れる子供もいたのだ。
 ある時そういう場所のひとつで女の子が溺れ、気付いた知人が助けた一件があった。まん丸に膨れたお腹を上にして浮いているのを見て、最初は人形かと思ったそうだ。幸い女の子は一命を取り留めた。しかしそれ以来海を怖がるようになり、家から出られなくなった。

 この子は小さくても泳ぎは達者で、この日は買ってもらったばかりのシュノーケルをつけて、海中の様子を覗いていた。
 「海底の岩から大勢の子供が生えていて、海藻のようにゆらゆら揺れながら、笑っていた」と言うのだった。

2019-08-13 16:00

32.挨拶

 かなり昔の夏の午後。親戚宅で数人がくつろいでいた。
 開け放してあった戸口から、近所の子供が中を覗き込んだ。
 「〇〇ちゃん麦茶でも飲んでけよー」と声をかけたが、その子はペコッと会釈をして行ってしまった。そのままおしゃべりを続けていて、一人がふと「あの子はどこへ行くんだろう」と言い出した。子供が向かった道の先に家はなく、村の墓地があるだけなのだ。
 皆で首を傾げていると、近所の人が「さっき子供が死んだ」と知らせに来た。

2019-08-16 16:00

33.影取り

 Jさんがまだ中学生だった頃、夏休みは毎日部活の練習に通っていた。いつも通る道の曲がり角には、かなり大きな木がせり出していた。
 ある日その角を曲がった途端、飛び出してきた男とぶつかりそうになった。びっくりして立ちすくむと、男は全速力で走って行ってしまい、木陰にいた二人の子供に笑われた。気を取り直して歩き出したら、後ろから声をかけられた。「影取りだよ」「あなたの番だよ」何を言ってるのだろうと思った。

 ところが Jさんは、練習中のグラウンドで気が付いた。自分だけ影が無いのだ。オロオロしていると、チームメイトが集まって来て、先輩達も相談に乗ってくれた。とりあえずあの木まで行ってみることになった。しかし周囲を探しても、もうあの子達は居ないし、どうすればいいか分からない。夕方になり、その日は解散するしかなかった。家に帰っても母親に言いそびれたまま、翌日になれば影が戻っているのではないかと、期待していた。

 翌朝やっぱり影は無く、家を出て木の所に向かった。木陰から時々通る人を見ていて、昨日の男を思い出した。するといつのまに来たのか、子供達の声が背後から「あなたの番だよ」「取るんだよ」と言う。「どういう意味?」と聞こうとして、振り返って固まった。昨日はよく見ていなかった二人の、顔だけが老人だったのだ。
 思わず後ずさりした時、ちょうど通りかかった人がいた。「今だよ」「影取りだよ」 Jさんはハッとして、木陰から飛び出して走って逃げた。影は戻っていた。

 あの時の大樹はしばらく後に、区画整理で切り倒された。Jさんは大人になるにつれ、あれは本当の出来事だったんだろうかと疑うようになり、やがて忘れかけていた。だが去年の夏、電車の窓から偶然その光景を見て、思い出した。
 線路沿いの通りを行き交う人達の中に、ひとりだけ影の無い人が、歩いていたのだった。

2019-08-16 16:00

34.河童

 Wさんが若い頃大雨で浸水被害の出た年があった。その日村の男達は全員駆り出され、Wさんも先輩と組んで警戒に当たっていた。
 厚い雨雲のせいで昼なのに暗い道を、二人で川沿いの神社を目指して歩いていると、鳥居の前に緑のレインウェアの人が5人立っているのが見えた。皆小柄で痩せていた。隣村の連中が来ているのかと思ったが、50メートルほどの距離に近づいた時、不意に先輩が立ち止まり「ありゃ人間ではねぇな」と言ったのだ。
 視界も霞むほどの雨の中よく見ると、レインウェアを着ていると思ったのは、彼らが緑色だったからだ。頭の先からつま先まで全部が暗い緑だった。すぐに向こうもこちらに気付き、一人が「キェーーッ」と叫ぶと、次々に濁流の川に飛び込んで消えた。
 村には古くから河童の目撃談があり、鳥居の脇には河童を祀った祠もあった。この日の豪雨でその祠も流され、その後河童を見た人はいない。

2019-07-12

35.鳥

 Gさんにはもう40年も心に引っかかっている記憶がある。彼がまだ故郷の山間の村に暮らしていた頃の話だ。
 その日昼食を食べ終わって車に向かうと、頭上を大きな黒い影が横切った。見上げるとそれは、翼を広げた長さが5メートルもある鳥だった。車庫の大きさと同じくらいだったので間違いない。しかもその鳥は人間の幼児を掴んでいたのだ。
 追いかけたが見失い、慌てて家に戻り家族に訴えたが相手にされず、夢でも見たんだろうとからかわれた。警察へ電話しようとしたのも止められた。
 誰にも信じてもらえなかったので、Gさんはそれ以来この件について喋らなかった。しかし行方不明事件がなかったかずっと気にかけていて、子供が見つからないと聞くと巨大な鳥を思い出してしまう。
 今でもふと、あの時どうすれば良かったのかと考える。

2019-03-26