
父を早くに亡くし、ずっと一人暮らしだった母親が倒れた年、離れた街にいたBさんは、介護のために妻子を連れて、実家に住み始めた。当時小学校に上がったばかりだった娘は、せっかくできた友達と離れるのを嫌がり、なだめるのに犬を飼おうと約束をした。Bさん自身、子供の頃から犬が欲しかったので、引越しが済むとすぐに、親戚の家で生まれた子犬をもらいに行った。その黒い犬は、もう親と同じくらいの大きさだったが、臆病な性格だった。家に着いても車から降りようとせず、引きずり出そうとしたら逃げた。すぐに捕まえたが、その後も何度か逃走しては、車で10分くらいかかる親戚の家に戻っていた。大きくても寂しがり屋で、人の姿が見えなくなると、いつまでも鳴き続けるのだった。

遠距離通勤になったBさんは、朝早くに家を出て、帰りも遅かった。妻は毎日母の病院に通っていて、休みの日にはBさんが付き添った。あまり構ってもらえなくなった娘にとって、犬は大切な友達で、自分で世話をしていた。「クロちゃん」とか「チャメちゃん」と呼んでいて、チャメというのは目が茶色だからだそうだ。いつも一緒にいたと思う。ただ散歩だけは、娘を振り切って逃げてしまうので、妻でないと無理だった。犬の脱走は、決まって妻のいない間に起きた。

何度目かに犬を引き取りに行った日、親戚から「悪いがもう犬は返せない」と告げられた。だんだん痩せて来ている上に、こんなに逃げるのは、あの家を嫌がっているからだという。餌はちゃんとやっているし、娘がどんなに可愛がっているか訴えたが、「やっぱりあそこで犬を飼っちゃいかん」と言って譲らない。それを聞いて思い出したのは、Bさんが子供の頃、「犬を飼いたい」とどんなに頼んでも、父親が「駄目だ」と取り合ってくれず、何故と問うと”あれ”がいるからと答えたことだ。適当な話でごまかしていると思っていたのに、親戚も「昔からあの家では犬を飼えない」と聞いていたのだ。

結局犬を取り戻せず、娘ががっかりすると心配したが、意外にも「チャメちゃんはいらない」とサバサバしていた。ただ妻は、時々犬を呼んでいるようだと気にしていた。そのあと母の容態が悪化して、大変な時期が続き、Bさん一家が実家暮らしをしていたのは、3年ほどだった。

今はもう結婚して親元を離れている娘が、夫を連れて来た時に、アルバムを眺めていて、ふと「昔犬を飼ってたよね」と呟いた。古い犬の写真を探し出して「ほらこれだよ」と見せると、違うと言う。「これはすぐにいなくなったチャメちゃんでしょ? 私が見たいのはクロちゃんの方」なのだそうだ。

それは全身真っ黒な体で、真っ黒な目が光る、チャメよりさらに大きな犬だったと、彼女は言った。
2018-07-30 18:39
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